半休止のお知らせ
1年に渡りご愛顧いただいた「(カルガリーで)映画が待ち遠しい!」は、半休止にいたします。もうあまり書くこともなく、思い出して絞り出して何か書くほどのブログでもないというのが理由です。
半休止なので、たまに映画評くらいは書くと思います。月に1回くらい書ければいいかなと。どうしても書きたいことがあれば、またまとめて何か書くかもしれませんし、再開するかもしれません。
ともかく、今は特に書くこともないのでお休みにします。万が一、ここの存在を気にかけて楽しみにしている方がいらっしゃれば、お詫びとともに、御礼を申し上げます。
そんなところです。素敵な映画を見てください。

カナダ プレイリー3200キロ 16.最後の目的地
ハイウェイを制限速度で帰る。ところどころある休憩所では、大型トラックが1台か2台停まっている。休憩所といっても、ただの道路脇の広場である。そのほとんどにトイレもないし、売店や自販機などはあるはずもない。軽く仮眠を取っているのだろうか。この先の冷え込みを考えれば、朝までというのはあまり賢明ではない。
制限速度は100キロなのだが、やや速い車、遅い車とあり、きっちりと100キロで走っていると、たまに前後が詰まってしまう。速い車が後ろから来る分には特に問題はなく、追い越してくれればいい。難しいのは、前との距離である。夜中に他の車を次々追い越してまで、急いで帰ろうとは思わない。マイペースで右側車線を走っていればそれでいいのだが、前に詰まると再び車間を空けるか、追い越さないといけない。後ろに車があると速度をゆるめるのもためらわれるし、追い抜きに入ると、以後しばらく、そのリズムでの運転になってしまう。
発想の転換で、100キロという数字は忘れて、車間距離のみを注意して走ることにした。前のトラックと付かず離れずの距離を保って運転する。スピードがスピードだから、距離にすれば100メートル以上はある。ぴったりと距離を保っているうちに、前のテールランプがこの大きさで見えれば、安全かつ心快適という加減が分かって来た。上り坂でトラックがやや緩めればこちらも緩めるし、スピードを戻せば戻すという繰り返しである。
リズムがつかめると余裕も出る。次第に分かってきたのだが、どうも前のトラックも同じような運転をしているのである。恐らくリアビューミラーでこちらのヘッドライトを見ているのだろう。やや近付きすぎたかと思うと、まず向こうから車間を取る。それでいて、逃げを打つほどに加速することもない。ほどよいところで、ほどよい距離を保って、マイペース運転に変わる。
真っ暗な道路で前の運転手との奇妙な連帯感が生まれていた。どのような人なのか知ることもないだろう。それでも、今の瞬間だけは、お互いの運転を助け合っている。気が付くと、後ろにもトラックの明かりが見えていた。やはり付かず離れずである。仕事の秘訣なのだろうか。秘訣というほどではないにしても、疲労をためないためのコツではあるらしい。3大等間隔の中央で、冗談のように小さいチンクエチェントはカルガリーへと向かっていた。
ブルックスのガソリンスタンドで軽い休憩を取る。少なくとも今夜の宿は確保されているからか、夜遅くでも、昨日おとといのような焦燥感はなく、体の疲れも許容範囲内である。立ち寄ったスタンドはコンビニがかなり大きく、生鮮食料品やポップコーンマシンまであった。天ぷらのようなものも置いてあった。何を揚げているのだろう。
天ぷらに興味はなく、トイレをすませただけで出発。次の大きな街は、60キロ先のバサノである。旅行の初日に、カントリーロードに乗り換えた分岐点である。あの時走らなかったハイウェイを、逆方向からバサノに向かっている。バサノを越えれば、初日に走ったハイウェイを戻るだけである。カルガリーが旅行の終わりだとしても、バサノにもロードトリップとしてのひとつの区切りがあった。
そういえば、初日にバサノに立ち寄った時は、ダウンタウンがどこにあるのか分からず、ガソリンスタンドでコーヒーを買っただけだった。夜は遅いが、絶対に早く帰らないといけないものでもない。再びバサノを通るのも縁である。今度こそはと、またダウンタウンを探すのもいいだろう。
ブルックスを出てからは、スピードの目安になる車はなく、単独走行だった。周囲には何もない。少しずつカルガリーに近付いているという実感はまるでない。
バサノへの標識が見えた。今回は逆から入る。カナダでは決して珍しいことではないが、ハイウェイを離れても、街までは距離がある。バサノへはハイウェイに標識がひとつ立っていただけで、それ以降は何もない。道はどんどん狭くなり、よく分からないまま右に曲がったり左に曲がったりを繰り返しているうちに、工場のバックヤードのようなところに入り込んでしまった。間違いなくここではない。
だが、どこを曲がったがためにここに来たかは分かっていた。道が狭くなるのが心細く、直進ではなく右折して、やや広い道に入ったのだ。あそこは我慢して直進だったのだろう。
引き返して、判断を信じ、狭い道に入った。しばらくすると、民家がぽつぽつと現れた。さらにしばらくすると、道が広がり、両脇に古めかしいレンガ造りの建物が密集した。どこもお店が入っている。標識には「Main Street」とある。この道はメインストリートにつながっていた。
アクセス方法が分かるとあっけなかった。信じて直進である。反対側から来た時も、道が狭くなるのであきらめて、ハイウェイに戻ってしまっていた。あそこも、信じて直進だったのだ。
バサノは千人以上5千人未満の街にしては、ダウンタウンがしっかりしていた。さすがに開いている店はなかったが、空きスペースは見当たらなかった。カナダらしくメインストリートは途方もなく広く、長さもかなりある。
唯一開いていたのはホテルである。スモールタウンのホテルらしく、バーも一緒になっている。そしてこれもスモールタウンらしく、お世辞にもきれいとはいえない、ガタがきた建物で、宿泊費も安そうだった。
こういう時間にこういう汚ホテルを見るのは、あの初日のケナストンホテル以来である。幸か不幸か、今日の宿はすでに決まっている。どうでもいいときに限って、こういうものを見つけてしまう。
ダウンタウンを突き抜けてハイウェイへ。案の定道が狭くなるが、そのまま進む。するとやはり、初日にあきらめて引き返したところだった。やはりあそこは直進だったのだ。
この先はごくわずかといえど土地勘がある。迷うことなく、ハイウェイ沿いのガソリンスタンドへ。車を停めてしばらく休憩する。カントリーロードに乗る前に休憩したのもこの駐車場だった。砂利の駐車場は相変わらず広い。ほんの数日で景色が変わるはずはない。昼が夜になったくらいである。そして、この先東に向かうか西に向かうかくらいである。何枚か写真を撮って車に戻った。あとは帰るのみである。
バサノからカルガリーまでは記憶していた以上に長かった。昼と夜の違いもあるし、ロードトリップの始まりか終わりかもあるだろう。地図で見ても、まだかなりの距離が残っている。来るときはひと息だった道が、やや疲れが出始めたこともあり、やけに長く感じられた。
カルガリーの郊外都市を、ストラスモア、チェスタミアと抜ける。チェスタミアでは少しだけ休憩した。日付も変わり、すでに午前1時を回っている。ガソリンスタンドのコンビニを特に用もなく歩き回り、すぐに出発した。
次はいよいよカルガリーである。寄り道できるところはもうない。ほどなく、カルガリーの光が見えた。そして、これまでの夜の街とは、明らかに様相が異なっていた。
光は縦横無尽に、際限なく果てしなく広がっている。遠くからなのに、視野に入りきらないほどである。光の絨毯である。
100万都市カルガリー。その姿は巨大だった。中にいては分からないほどに巨大だった。自分もまた、あの光の中のひとつになる。カルガリーをどこまで知っているかに関わらず、である。
西からカルガリーのシティーリミットに入る。普段まず来ない郊外だし、真夜中に来ることはまずないのだが、そこはやはりカルガリーだった。道の作りや建物の並びなど、見たことはなくても見覚えのある風景である。見慣れたバス停の標識もある。
走っていて安心感があった。カルガリーというと大きいだけで、あまり積極的にいいところだとは思っていなかった。だが、帰ってくると見え方が違う。ロードトリップでいくつか雰囲気のいいスモールタウンも見たし、大都市でいえば、リジャイナに感銘を受けた。それでも、カナダで住むとなると、カルガリー以外は考えられなかった。
カルガリーがそこまでいいところなのか、住んでいたことによる慣れなのか、その辺りは分からない。きっとほとんどが慣れによるものだろう。それでも、外国の一都市をここまで、自分の一部のように思えるのはどこかうれしかった。
ダウンタウンの超高層ビルが視野に入る。この4日間で、この街以外では見ることのなかったものである。ひとつやふたつではない。文字通り林立している。カルガリー名物としてスカイスクレイパーを挙げる人は少ないだろうが、これも確かにカルガリー名物である。
真夜中ということもあり、ダウンタウン近くでも、ほとんど車はなかった。市街地の制限速度でゆっくりと走り、アパートまでたどり着いた。荷物を抱えて部屋に入ると、妙にだだっ広く、本当に自分の部屋なのかと戸惑ってしまった。そうではあるのだが、よく見るとキッチンに油汚れが残っていたりする。数日前まではここにいたのだ。
すでに午前2時すぎである。リジャイナで長くいた分だけ、帰りも遅くなった。明日の朝も早い。8時には車を返さないといけない。これから何かを作る気にもならないし、冷蔵庫にはほとんど何もない。荷を解くのもほどほどに、近くのギリシア料理店に行き、テイクアウトのセットを買った。冷蔵庫に残っていたビールとともに遅い遅い夕食である。ギリシア料理独特の、ヨーグルトベースのソースがうまかった。
だらだらとスポーツニュースを見ながら食べ終わり、余計なことは考えずにそのまま寝た。頭は冴えていたものの、体の疲れの方が強く、すぐに寝られた。
翌朝は7時には目を覚まし、手早くシャワーを浴びてアパートを出た。
チンクエチェントを運転するのも、これが最後。オイル交換のランプは灯ったままである。ガソリンが少なくなり、メーターの信憑性を疑いもした。いろいろあったが、これが最後である。何枚か写真を撮り、エンジンをかけた。
レンタカーの事務所はそれほど離れていない。車で5分もかからない。しかし、歩くとなると15分はかかる。歩いて戻らないといけないが、体を動かす分、またよく寝られるだろうと、軽く考えていた。
ガソリンを満タンにして事務所へ。駐車スペースには、誰かが借りるのであろうチンクエチェントがあった。鮮やかなブルーである。ブルーもそれほど好みではないが、ブラックよりはいい色である。
目移りしながら事務所に入り、カギを返し、デビットカードで支払いをした。アラブ系のおじさんから返却証明書の控えを受け取る。返却場所や保険の種類など、数多くの情報が並んでいる。走行距離は3200キロだった。
(終わり)

カナダ プレイリー3200キロ 15.給油あれこれ
必然的に走る時間が多くなる。そろそろハイウェイとの合流、カントリーロードを終わらせるのももったいないというところに、小麦畑の広がりが見えた。小麦畑は特に珍しくもないのだが、大量にワラを巻いたものを転がしてあるのが目を引いた。
近くに砂利道を見つけ、車を停める。近くで見ると、ワラのロールは巨大である。道路工事でアスファルトをならすのに使うローラー車のロールとさほど変わらない。そんなものを無造作に、30や40では収まらないくらいに転がしてある。
無造作でありながら、間隔が狭い分、どこか幾何学的で、上空から見ると何かの模様になっているのではないかと思ってしまう。それはただの錯覚としても、なかなか迫力のある眺めである。
それにしても、どうしてこんなにたくさんのロールをそのままにしているのだろう。普通なら、転がすにせよ、隅の方か、真ん中辺りに2つ3つである。ここまでしているのには、深い理由があるのだろうか。ワラに対する譲れないポリシーなのか、それとも面倒くさくなったのか。よくは分からないが、絶対に知りたいというほどのものでもない。時間をかけていろいろな角度から写真を撮り、また車を走らせた。
ハイウェイ1号線との合流地点、スィフトカレントに着いたときは、すでに6時を回っていた。トイレ休憩でガソリンスタンドに立ち寄る。だいぶガソリンも減っていたのだが、給油は見送った。というのも、カナダのガソリン価格には地域差があって、オイルシティーを2つ抱える(カルガリー、エドモントン)アルバータ州は、全カナダで一番安いのだ。
ガソリン残量を見ると、アルバータまで出るには厳しいだろうが、少なくとも州境近くまでは行ける。その辺りの方がいくらか安いという考えである。ガソリンスタンドではコーヒーだけを買って、すぐに出発した。
昨日に続いて、夕日を見ながらの運転である。スィフトカレントからしばらくは、やや南西への道だったため、太陽が真正面にくる。日が沈めば、あとは真っ暗な中をカルガリーまで帰る。しかもまだ、アルバータ州に入っていない。いろいろと寄り道したツケといえばそれまでだが、最終日は長くなりそうだった。
ガソリンは大丈夫とスィフトカレントを出たものの、そこからしばらく、周囲にまったく何もなくなってしまった。町もないし、ガソリンスタンドもない。メーターで逐一、残り推定走行距離を確認する。70キロ、60キロと順調に減っていく一方で、給油できそうな場所は一向に現れない。
じわりと気持ち悪い汗が出始めたところで、ようやく左手にガソリンスタンドが見えた。これでガス欠の心配はないとアクセス道路を探していると、どうもスタンドに人の気配がない。車も停まっていない。明かりもついていない。
外観はきれいで、つぶれてしまった様子でもない。となると考えられるのは、営業時間が終わったということである。
開いてないのだから仕方ない。せっかく見えたスタンドを素通りする。同時に、また気持ち悪い汗を感じた。ハイウェイだからどこでも給油できるというのは間違いで、サスカチュワン州のど田舎などでは、そもそもガソリンスタンドが少ないし、夜遅くまで営業していないこともある。
不安と孤独感を増すように、すでに日は落ち、残照もなくなりつつあった。スィフトカレントまで戻る燃料は、恐らくすでにない。ここからは、とにかく燃費を気にかけて走った。チンクエチェントのメーターでは、まさに今現在の燃費が確認できる。燃費は、100キロを走行するのに何リットルのガソリンを必要とするかで表示され、普通にハイウェイを走っていれば5.5リットルくらい、少し踏み込めば7リットル8リットルと数字が上がる。こういうことがリアルタイムでチェックできる。
回転数を合わせながらおいしい部分を探り、4.6リットルという究極低燃費走行にまで数字を落とした。スピードは90キロくらいにまで落ちているが、周りに迷惑をかけるほどではない。そうはいっても、問題はガソリンスタンドがあるかどうかである。
メーターの距離を信じれば、その間にいくつかのスモールタウンがある。焦らず騒がずと言い聞かせていると、突然「ピー」という警告音が鳴った。メーター表示が強制的に「Low Fuel」と切り替わっているのだ。
そんなことは分かっている。何も警告音付きで知らせることもない。だが、困ったことに、「Low Fuel」がメーターに鎮座してしまって、切り替えられないのである。残り何キロ走れるかなど、まったく分からない。となると、根本的な疑問がわき上がってしまう。「そもそもこのイタリア車は信用できるのか?」である。チンクエチェントを信用するならば、まだ40キロくらいは走れるはずである。そうではあるのだが、イタリア車はそこまで、「残り何キロ」と厳密に割り出せるのだろうか。イタリア人はそんなことに興味があるのだろうか。
自分の中で「40キロ」はまったく信憑性のない数字になってしまった。イタリア人には怒られるかもしれないが、イタリア車である。いきなり止まってしまっても不思議はない。
「Low Fuel」のまま、何でもいいから給油ポイントがないかと走る。時間が経つのが遅い。走っても走っても、次の町にたどり着かないような、そんな運転である。
しばらくして、ようやくスモールタウンへの標識が見えた。町はハイウェイから少し離れたところらしい。もちろん興味は町にはなく、ガソリンスタンドである。そして、アクセスロードの少し向こうに、はっきりとガソリンスタンドがあった。大手チェーンではなく、個人経営らしき古ぼけたスタンドである。暗い中、遠目に分かるくらいだから、電気もついている。営業中である。即決で入っていった。
差し当たり20ドル分を給油して、難は逃れた。満タンにしてもよかったのだが、ここで満タンにしてもカルガリーまでもつか微妙だし、ガソリンはアルバータ州の方が安い。アルバータに入ればすぐに、メディスンハットという都市がある。再給油はそこで行えばいい。
精算で建物に入ると、レストランも一緒になっている、田舎によくあるスタイルだった。中国系の中年夫婦が経営しているようである。旅行を始めて最初に給油したところも、同じようにレストランがあり、同じように中国系家族の経営だった。「トイレを使いたい」と言うと、レジのおじさんは、少し面倒くさそうにカギを渡してくれた。
アルバータに入り、メディスンハットに着くと、すでに10時を回っていた。カルガリーはまだまだ先である。運転づめで当然疲れもあり、ハイウェイを離れメディスンハットの市街地に入り、ガソリンスタンドを探した。
驚いたのは街のサイズである。これが想像を超えて大きかった。夜の10時なのに、街はまだまだ明るく、車が行き交っている。ガソリンスタンドも、選ぶのが困るくらいにある。ファーストフード店やチェーンのレストランも多い。ここまで見た都市と比べても、州都のウィニペグ、リジャイナにはさすがに譲るものの、それ以外では断トツである。アルバータ州というと、カルガリー、エドモントンくらいだと思っていたので、このようなところがあるとは考えもしなかった。
何が経済の原動力かというと、これはシンプルである。街からそれほど離れていないところに、天然ガス採掘のプラントが並んでいるのである。もうもうと煙を噴き上げているので、夜でもひと目で分かる。オイルシティーではないが、オイルシティーのようなものである。アルバータ的シンプルさである。
適当に、目に付いたシェルに入る。資源の街らしく、ガソリンが安い。1リットルあたり1ドル9セント程度である。サスカチュワン州で1ドル17セント、マニトバ州で1ドル23セントくらいだったから、やはりかなり安い。ちなみに1ドル9セントはカルガリーよりも安い。カルガリーでは1ドル13セントほどである(2011年9月時点で)。厳密にオイルシティーのカルガリーの方が安そうなものだが、都市のサイズと物価の相関関係によるのだろうか。
再び20ドル分を給油する。これでほとんどフルタンクだろうから、カルガリーまでガソリンの心配はない。精算を兼ねて、コンビニでコーヒーを買う。ポットから注いでいて気が付いたのだが、コーヒーはあまり温かくない。注ぎ口からの量も少なく、中にほとんど残ってないようである。どうしようかと思ったのだが、飲んで味気がないほど温度を失っているわけではなく、そのまま精算することにした。
「あの車、何であんなに小さいんだ?」
レジで、東南アジア系の男性が聞いてきた。最初は何のことか分からなかったのだが、スタンドの車は一台だけだし、北米基準ではおもちゃのように小さいチンクエチェントである。すぐに質問の意図を理解した。
「あれ、レンタカーなんだよ。小さくてかわいいだろう」
「アメリカの車なのか?」
「イタリア車。フィアットってメーカー」
「フィアット?」
レジの男性は、外国語の発音練習のように、確かめるように言った。
「そう、フィアット。こっちではあまり見ないけど、クライスラーと提携したから、そのうち増えるんじゃないかな」
「ふーん、それにしても小さいなあ」
男性は、また外に視線をやった。
「どこから来たんだ?」
男性が言った。
「日本人だけど、住んでるのはカルガリー。これから帰らないといけないんだ。明日の朝、車を返すからね」
「カルガリーか、遠いな。俺はフィリピン人で、今は家族を連れて、こっちに来てるんだ。もう3年くらいになるかな」
「そう、フィリピンなんだ」
とは言うものの、それで話が転がるわけでもない。
「そうだ、ちょっとしたことだけど、このコーヒーぬるかったんだよね。もう切れてるみたいだよ」
と、僕の方から話を変えた。
「本当に?それはすまない。全然気付かなかった。なら、コーヒーはタダでいいよ」
言ってみるものである。2ドル弱とはいえ、タダとなるとやはりうれしい。精算をして礼を言う。この先このフィリピン人男性に会うことは二度とないだろう。それだけのことで分かり切ったことなのだが、やはり、二度と会うことはないだろう。チンクエチェントの燃料表示がいっぱいになっているのを確認し、メディスンハットを去った。
(続く)

汽車はふたたび故郷へ
帰国後初めて、岡山のシネマ・クレールで映画を見た。映画を見るようになって以来、大部分は岡山に住んでいたので、独立系の映画はほぼすべてクレールで見ている。あまり計算したくはないのだが、ざっと計算すると、これまでこの映画館には30万から35万くらいつぎ込んでいる。日本映画でなければ何でも見ていた時期もあった。当然ゴミのような映画もたくさんあったし、「バカヤロー、金返せ」と(冗談で)憤ったりもした。それでも映画との出会いの場があるのは素晴らしいことだし、岡山クラスの都市で、あれだけまとまった量の上映をするミニシアターも貴重である。「いつまでも
あると思うな 親とクレール」で、お近くの方は極力足を運んでください。(よく「シネマクレール」と誤表記されるけど、正しくは「シネマ・クレール」と「・」が入る。部外者が言うことでもないのだけど、従業員はこの「・」によく分からないこだわりを持っているので、正しく表記しましょう)
今回見たのはグルジア出身の名匠オタール・イオセリアーニの新作「汽車はふたたび故郷へ」である。高松では9月からなのだが、イオセリアーニとなるととても待てない。現役で撮り続けている監督で、早く見るためには往復の交通費もいとわないとなると、カウリスマキとイオセリアーニくらいしかいない。イオセリアーニは、特集上映を見るために、広島まで行ったくらいである。かなり中毒性の高い監督である。
イオセリアーニが日本で広く知られるきっかけになったのは、2003年公開の「月曜日に乾杯!」だろう。工場勤めに嫌気が差した中年男が、ある月曜に突然、ベネチアに旅行するというめちゃくちゃな映画である。奥さんが怒ったり家族が心配したりはするものの、映画の中心は「ベネチアは楽しいなあ」という姿をのんびり見せるだけである。時間が経って帰ってくると、無断欠勤がなかったことのように職場に復帰する。
旅行を通じての、やりすぎなほどの人生賛歌。多くの日本人は度肝を抜かれただろうが、これこそがイオセリアーニのスタイルである。ひとつ前の「素敵な歌と舟はゆく」もそのような話だったし、ひとつ後の「ここに幸あり」もそのような話だった。もうひとつ特徴的なのは、人生賛歌の対象は主に中高年で、若者の迷惑などどこ吹く風で、歌って踊って飲んで騒いでというじいさんばあさんが描かれる。
ジジババ向け人生賛歌。これは間違いなく、誰もが思い浮かべるイオセリアーニのスタイルである。しかし、実はイオセリアーニには、「裏イオセリアーニ」とでも呼ぶべき、もうひとつのスタイルがある。「汽車はふたたび故郷へ」で使っているのが、この裏スタイルである。
ストーリーはそれほど複雑ではない。主人公のニコラスは、グルジアでデビュー作の長編映画を撮影している。だが、できあがりの評価はひどく、「名作だ」という声もある一方で、「前衛的すぎる」「テーマが共産主義に反する」と、公開を見送られてしまう。失望したニコラスは表現の自由を求めてフランスに渡るのだが、そこでも商業映画と自らの芸術性の板挟みとなり、思うように映画を作れない。と、単純である。
「裏イオセリアーニ」と書いたが、実はこの映画を見るまでは、そのようなものが確固たるスタイルであるとは考えていなかった。これまでのキャリアで、そういう映画は一本だけだからである。のんびりといい加減な映画を撮る一方で、イオセリアーニはグルジア時代に(後にフランスに渡る)「歌うつぐみがおりました」というモノクロの映画を撮っている。これが「汽車はふたたび故郷へ」とそっくりなのである。
「歌うつぐみがおりました」では、主人公は音楽家である。地元の楽団に所属しているが、仕事にやる気はあまりない。それでも自宅では、いつか日の目を見ると信じて、自作の交響曲を書き続けている。しかしそれでもやはり、日の目を見ることはなさそうだと、ハッピーエンドとは程遠い、気持ちの悪い映画だった。
音楽家を映画監督にすれば、そのまま「汽車はふたたび故郷へ」である。両者間には40年の隔たりがあるものの、暗いトーン、埋もれる才能と、偶然とは言い難いほどの類似性を見つければ、そこに潜む意図を汲み取りたくもなる。
このままではイオセリアーニ論に終始しそうなので、まずは映画そのものを見ていこう。人生賛歌が影をひそめても、イオセリアーニはイオセリアーニである。しばしばメインのストーリーから脱線して、ニコラスを中心とした周辺のつながりを、焦りもせず気負いもせず、淡々と見せる。退屈といえば退屈である。何がどうなろうが、ニコラスは上手くいかない。心弾むようなことはない、人生賛歌でもない、それでも映画はスローなのである。
だが、恐らくイオセリアーニの方にも、明確なストーリーラインを見せる気はないだろう。ストーリーではなく、世界を見せる。「汽車は再び故郷へ」であれば、ニコラスが関わった、映画作りの現場の世界である。ニコラスはある時はこの人と、ある時はあちらの人と話をする。この人とあの人は仲が良かったり、あそこの人はそもそも映画関係者でもなかったり、実はニコラスの旧友だったりと、明示的ではないにせよ、ゆるやかに「その世界」が広がっていく。
もちろん、この人とあの人の関係が分かったところで、直接ストーリーには関係がない。大事なのは、時に心休まり、時にイライラもするこの世界に、ニコラスがいてもがいているという点である。
イオセリアーニはこのような限定的な世界を描くことにおいては、他の追随を許さない。「月曜日に乾杯!」であれば、ベネチアの空気がそこにあるし、匂いがあるし、風景の美しさには主人公の高揚も感じ取れた。
その一方で、イオセリアーニのやり方は一般的な、具体的に言うとアメリカ的なストーリーテリングとは違いすぎるし、暗くて退屈な「汽車はふたたび故郷へ」などは、公開も難しいだろう。
あまり単純化しすぎるのもよくないが、アメリカ的なストーリーテリングは、とにかくすべてが明確でなければいけない。まずはニコラスの映画作りが上手くいかないという問題がある。ニコラスはこの境遇に、分かりやすく絶望しないといけない。その上で、分かりやすく立ち上がり、分かりやすく絶望を乗り越え、分かりやすく成功をつかみ、分かりやすくハッピーエンドにならなければいけない。多少の例外はあっても、たいていこんなものだろう。
「汽車はふたたび故郷へ」は、北米の人にとってはまず腑に落ちないだろう。まずニコラスは、いくら妨害が入っても「こんなものだよね」と態度も変えずに受け入れるし、映画作りに熱心ではあっても、ずる賢く立ち回ったり、直情的に引っ張ったりということはあまりない。これは「歌うつぐみがおりました」でも同じだったのだが、多くの人は、日本人も含めて「こいつは本気なのか?」と思ってしまう。だが、この映画に主題があるのだとすれば、それは「ニコラスがどう成長するか」ではなく、「当時の映画作りは大変だったけど、たまにいいこともあった」くらいではないか。「その世界」があって、そこにたまたま主人公がいる。こういう映画があってもいいだろう。
さて、最後に裏イオセリアーニの問題に戻りたいが、あれだけ中高年に優しいイオセリアーニが、ここまで才能ある若者に厳しいというのも不思議である。ニコラスに厳しいわけではなく、ニコラスが子どもの頃は、トリュフォーの「大人は判ってくれない」のように、瑞々しくその動きを追いかけていたのである。ニコラスが青年になり、映画のトーンがいきなり変わってしまう。
ニコラスはグルジアでキャリアを始め、事情がありフランスに渡る。これは言うまでもなく、イオセリアーニのキャリアと重なる。しかし、だからといって、「汽車はふたたび故郷へ」が、イオセリアーニの自伝的映画であると言い切るのには抵抗がある。
グルジア、フランスの映画界での苦労は、自らの経験に基づく部分が多いだろう。しかし、少なくともイオセリアーニは成功したし、世界的名匠として知られている。ずば抜けた才能があったのか、奇跡的な出会いがあったのか、その辺りは分からない。だが、少なくともニコラスとは違う。
どうしてもニコラスにイオセリアーニは重ならない。それよりももう少し大きな、「当時の若手監督全般」のようなものが投影されているのではないか。それはそのまま、「そうなったかもしれない自分」であり自伝とは紙一重なのだろうが、イオセリアーニの目は、自分の周囲の埋もれてしまったエネルギーに向いている気がする。そう思うと、イオセリアーニは特別冷たい目で見ているわけではなく、その当時をそのまま切り取っているだけである。芸術家には厳しい時代だった。だから映画も厳しく見えてしまう。同時代を生きた者とすれば、同情もできない。そこにあるのはボトムアップで見た感情であり、トップダウンで見下ろすものではない。
いわば中立を保っていたイオセリアーニが、映画監督として何かを投げかけるのはラストシーンである。「歌うつぐみがおりました」も「汽車はふたたび故郷へ」も、突拍子もない終わり方という点では共通している。あまりいい終わり方でないことも共通している。そして、99パーセントの終わりの中に1パーセントの始まりを予感させることも共通しているのである。たった2本の映画で、40年の隔たりがあっても、ここまで似ているとなると、立派なスタイルだろう。
人生賛歌のイオセリアーニも、すでに終わった中高年に自由を与えることで、再び人生を始めさせる。この人の映画の多くは、「一度何かが終わる」ことがきっと大前提になっている。だとすると、表のイオセリアーニも裏のイオセリアーニも表裏一体で、終わるまでの話か、終わってからの話かの違いでしかない。
あまりいいことはなかったが、あまり悲観的でもなかった。「汽車はふたたび故郷へ」は、不思議な不思議な、イオセリアーニにしか撮れないであろう映画だった。
別離

映画評を書いてきて良かったことのひとつは、Monsieur Lazhar(「ぼくたちのムッシュ・ラザール」)を紹介できたことである。昨年見た映画では断トツだったし、映画の力があったのか、映画評も割にスラスラ書けた。
これは自己満足だが、恐らくここでの記事が、「ぼくたちのムッシュ・ラザール」を日本語で最初に、例え超小規模であれ、まとまった形で評価したものである。それだけといえばそれだけなのだが、かなり思い入れがあるのには間違いない。
「ぼくたちのムッシュ・ラザール」はアカデミー賞の外国語映画賞に最終ノミネートされてもいたが受賞はならず、「別離」というイラン映画にその座を譲った。残念ではあったのだが、「別離」を知らない分、特別怒ったり落胆したりはなかった。「きっとそれだけいい映画なのだろう」である。僕は、アカデミー賞という存在そのものがバカだと思っているし、アメリカの映画産業に携わっている人たちがまともな判断をするとも思えないのだが、見てないことには判断はできない。
今回取り上げるのは、その「別離」である。僕は香川県在住で(クソ田舎と言わないでほしい)、一番近くのミニシアターというと高松なのだが、高松のホール・ソレイユではもうやっている。岡山より早い。それならイオセリアーニの新作をもう少し早められないかとも思うのだが、こちらは9月の予定である。
平日の昼間に5人のお客さんで見た「別離」はいい映画だった。お金を払ってでも見てよかった。他の人にも勧められる。ただ、映画についてじっくり考えると、欠点ばかりを思い出してしまうのである。あまりいいところはない。よくは分からないが不思議な映画である。こういう映画はあまりない。
プロットを簡単に説明しておく。物語の中心となるのはひと組の夫婦、映画の冒頭は、離婚調停の様子である。妻のシミンは娘に自由な教育を受けさせるために、外国に行くことを希望している。一方で夫のナデルは、アルツハイマーの父の介護があり、それは無理だと主張する。「それならば離婚してでも」というシミンに対し、ナデルは「そんなものは離婚の理由にならない」と突っぱねる。結局調停はまとまらず、二人は別居してしばらく様子を見ることになる。
父の介護を妻に頼っていたナデルは、すぐに親類のツテでヘルパーを見つける。やって来たのはラジーという、小さい娘を持つ女性である。しかし、ラジーは仕事中にアルツハイマーの父を縛り付け、無断で外出していたことが発覚してしまう。加えて、家にあった現金もなくなっている。ラジーは盗みを否定するものの、激高したナデルはその場で契約を解除し、ラジーを追い出す。
実はラジーは妊娠中で、その夜、病院で流産してしまう。この件はすぐに簡易裁判となり、ラジーは、喧嘩っ早い夫とともに、もみ合いになった時にナデルに押され階段を転げ落ちたからだと主張する。ナデルは階段を転げ落ちるほどには押してないと反論し、父を虐待したと、逆に告訴する。また、ラジーがチャドルをまとっていたことで、妊婦とは知らなかったと言う。
ざっと、アウトラインとしてはこのような話である。状況は特殊だが、取り調べ兼裁判の様子が中心なので、法廷サスペンスの一種と考えられるだろう。サスペンスらしく、いくつかの謎が争点になっている。書き出すと、
・ナデルはラジーの妊娠を知っていたのか?
・ラジーはなぜ外出したのか?
・ナデルが押したことが流産の直接の原因なのか?
・お金を盗んだのは誰なのか?
というところだろうか。やや数が多い気もするが、法廷サスペンスならこれくらいあっても特に不思議はない。
見せ方はオーソドックスである。裁判という大枠を作り、真実を突き詰めていく。そこに、観客がアクセスを許されないブラックボックスを置く。「別離」でいえば、先の4点である。ブラックボックスを覗ければ、すべてが明らかになる。だがそれは許されない。どこかの時点で箱が開くと信じて、どきどきしながら見続ける。そういう映画である。
こういう見せ方をする以上は、100パーセント「理屈で見る映画」である。ロジックを積み上げていくからおもしろいのであって、その処理がいい加減になると、映画は魅力を失ってしまう。
正直なところ、「別離」は理屈付けが妙なところが多々ある。しばしば登場人物が突拍子のない行動を取るのである。細かい部分なのですべてを思い出しはできないのだが、例えばシミンがいきなり一時的にせよ戻って来たり、後の展開を考えたときのラジーの言動であったり、ラジーの夫がナデルの娘を学校前で待ち伏せしていたりと、理屈のささくれが気になって集中しきれない。それも、嘘を正当化するためにさらに大きな嘘をつくように、映画が進むにつれ、ささくれは頻繁かつ大きくなる。なぜそんなささくれを設けるのかというと、「その方が映画が盛り上がる」からなのだろう。そう透けて見えるとさらに心が遠のいてしまう。
ブラックボックスの開け方もあまり好ましいものではなかった。いわばこの映画を2時間見せるための核である。それを巡って理屈を積み上げてきたのに、そんなことで開いてしまうのかと、実にあっけない。秘密ごとが明らかになる時は案外こんなものなのかもしれないが、もう少し映画らしい爆発力があってほしかった。
それでも、ブラックボックスの中身は、大きなサスペンスの流れを吸収し、さらに大きなクライマックスへと展開させる、待った甲斐があるものだった。細かいことを言えばきりがないが、サスペンスとしては非常によくできている。退屈もしない。
しかし、「別離」という2時間の映画を見て、一体そこに何があったのかと考えると、あまり具体的なものは浮かばない。ひどい言い方かもしれないが、「サスペンスがあって、サスペンスが解決した」というだけである。サスペンスと並行する「離婚」というテーマが効いているとも思えなかった。そういうテーマがない方が良かったとは言わない。あった方が良かっただろう。ただ、離婚そのものに、映画を引っ張っていくだけの力は感じられなかった。夫婦の問題が理解できないわけではない。頭では理解できる。わざわざ映画のタイトルにするほどの牽引力がないだけである。
要は、サスペンスはあったが、がつんとくるような爆発力がなかった。これは、ブラックボックスの中身をサスペンスの解決だけに使い、あまり掘り下げなかったことにもよるだろう。結構たくさん入っていたのだから、並列的にではなく、どれかが中心になるように使った方がよかった。
このように書いてきて「何をいまさら」と思われるかもしれないが、それでも映画は良かった。イランの社会派サスペンスはこのようになるという好例である。そうではあるのだが、映画を思い返すと欠点ばかりである。かといって、細かい理屈付けを修正したところで見違えて良くなるとも思えない。脚本が弱いのだろうか。
「別離」が外国語映画賞を取ったのはそれはそれでひとつの結果としても、「ぼくたちのムッシュ・ラザール」の爆発力と比べると見劣りしてしまう。何で「別離」が選ばれたのか。
理由はいくつか考えられるのだが、やはりイランという、彼らとはまったく対極にある文化から出て来たというのが大きいだろう。往々にしてアカデミー賞にせよカンヌにせよ、賞レースではこういう分かりやすい社会性は好まれる。例えばイスラム圏では、「コーランに誓って」言えるかどうかは絶対的な意味を持つ。普段は虚言を垂れ流していても、コーランに手を置くとそれはできない。「別離」でも「コーランに誓えるか」という極限のやり取りが、最大の山場で用いられる。コーランがなければ何を言ってもいいのかと、それは不思議だったのだけれど。
もう一つ、これは誰か指摘しているのか分からないが、「別離」の演出は非常にアメリカ的ではないだろうか。法廷サスペンスと、アメリカ映画によくある形なのはもちろん、もっと細かい部分、オーバーな演技であったり、激しいトーンの会話を間を作らずに重ねたりが、実にアメリカ映画なのである。「別離」はアメリカ人にとって、少なくとも「ぼくたちのムッシュ・ラザール」よりは見やすい映画だろう。イラン映画であっても、である。
ならば、イラン映画はイラン映画らしく撮るべきかというと、問題はそこまで単純ではない。映画の手法は常に自由であってほしいし、イラン映画だからといってイランらしさを求める方が間違っていると思う。友だちのうちを探さなくてもいい(関係ないけど、フランス映画を見て「フランス映画らしかった」「フランス映画らしくなかった」と二極化してしまう人はどうにかならないだろうか)。
「別離」で気になったのは、影響を受けているであろうアメリカ映画が、ショービジネス的な、金儲け的なものだった点である。そういうアメリカを根底に見ると、いくら「コーランに誓って」と言っても、どこか作り物に見えてしまう。考えすぎかもしれない。それでも、「別離」はアメリカ的であるが故に失っているものの方が多かった。まさかアメリカ系の資本が入っているのだろうか。そうであっても驚きはしないが。
結局のところ、アメリカ人はそれほど映画を真剣に見ていないのだろう。アカデミー賞だからといって、全方位的に素晴らしいわけではない。規模が世界一というだけで、世界一の選考基準があるわけではない。
でもやっぱり、「アカデミー賞は世界一」なのだろう、大方の人にとっては。もどかしい。本当にもどかしい。
